むかしのお話です。
今は妙見の白岩の下を国道が通っておりますが、昔は白岩のがけの下を信濃川が岩をかんで白くくだけていました。長岡方面に往き来する人たちは、浦柄の裏から榎峠をのぼりおりしなければならなかったのです。
今から四五〇年ほど昔、この榎峠の上に会水城という城がありました。この城の城主である石坂与十郎は、強いだけではなく信仰心もあつく、土地の人たちに大変したわれていました。ところが与十郎は当寺越後の国をおさめていた上杉謙信に従わなかったため、謙信は小千谷の深地城の城主、深地入道に与十郎を攻めほろぼすように命令しました。入道はさっそく会水城を攻めましたが、名将にひきいられた会水軍はとても強く、攻めるたびに追い返されてしまします。
そこで入道は計略をたて、十二月三十一日の夜こっそり兵をひきいて会水城をかこみ、一月一日の夜明け前、急にときの声をあげて会水城を攻めました。正月だったので城にいる兵も少なく、すっかりゆだんしていたため、味方は次々にうち死にし、次第に追いつめられてしまいました。
さすがの与十郎も打死の覚悟をきめ、家老の広井氏を呼んで一人娘と二ふりの刀などをあずけ、
「どうか何とか落ちのびて石坂家の再興をはかってもらいたい。」
と涙ながらにたのみました。広井氏は主君と運命をともにすることをあきらめ、四、五人の家来とともに姫を守って間道をぬけて落ちのびました。思い残すことのなくなった与十郎は、残った家来とともに、はなばなしく戦ってうち死にしました。こうして会水城はついに落ちました。
広井氏は落ちのびて薭生村にひそみ、一族とともに姫を守りながら時のくるのを待ちました。しかし広井氏は間もなく重い病気にかかり、姫の行末を心配しながら死んでしまいました。姫は今となっては父の志をついで石坂家を再興することができなくなったと思い、酢の井戸に身を投げて死んでしましました。
石坂与十郎をしたい、会水城の落城を悲しんだ浦柄部落では、それ以上正月三が日のお祝いをしないことはもちろん、姫の死を悲しんで、正月三が日は井戸を開かないならわしだったそうです。
また、広井氏のあとは御荷屋という屋号で今に伝わり、二ふりの刀、槍などが遺品として伝えられています。