昔のお話です。
そのころ、吉谷郷番の面一帯は、人家が密集しており大変栄えておりました。日暮れごろ小高い丘(船岡山)の上から眺めると、肥沃な田畑に囲まれた民家からたち昇る煙は数百条も数えられ、人々はこの地を「梨子崎千軒」といっていました。その繁栄ぶりは、小千谷名物の天神囃子にも、
「天神ばやしの梅の花 一枝折りて笠にさすより 梨子崎女郎衆の手に持たす」
と残っているほどです。
この中心にあったのが番の面で、ここには今でも梨子崎稲荷社が残っております。
この梨子崎に梨子崎長者という大金持ちが住んでおりました。先祖は京都から流れて来て、この付近の不毛の地を開拓したといわれており、その富はどのくらいあるのか見当もつかないほどでありましたが、それをどこにしまってあるのか知っている人もいなかったそうです。広大な邸の中には稲荷社があり、人々は梨子崎稲荷と呼んでいました。
これだけ栄えた梨子崎にもひとつの大きな悩みがありました。それは大昔信濃川の河底だったといわれるこの付近は飲料水が少なく、わずかにある貴重な数本の井戸を中心に生活していたのであります。だから、この地最大の願いは飲料水だったのです。
ある日、梨子崎長者の門に一人の旅の僧が行き倒れました。情け深い長者は早速この僧を家にあげ、介抱して翌年全快するまでの面倒を見てやったのです。雪が消えた春この僧は、長者に暑くお礼を述べて行方も知らない雲水の旅に発ちました。その僧が使っていた部屋から一通の書きおきが発見されたのは二、三日後でした。長者はこれを読んでビックリしました。書面にはひとつの鍵がそえてあり、
「今年は必ず旱天が続く、その時は梨子崎一帯には一滴の水もなくなるから、即刻水のある地へ移住せねばいけない。水のある地はこれより東へ半里、蓮華谷の中央でこの鍵を投げよ。鍵の先が向いた所には永久につきない泉がある。」
と記されていました。この文中の蓮華谷とは、今の吉富町、下夕町、川岸町一帯の低地、即ち谷のことであります。ここは当時越後三谷のひとつといわれていました。
長者は早速この鍵を持って蓮華谷の中央にやって来て、空高く投げあげました。落ちた鍵の先を見たら、何と深い崖の草むらの中からこんこんと泉が湧いていたのでした。それからさっそく梨子崎長者は住民たちを説得してまわり、この谷に大移動をいたしました。その年は旅の僧が言ったように大旱天でしたが、移動のおかげで一人の被災者も出なかったということです。
小千谷の町の発展は、その後谷の上の方に伸びて現在に至っているわけですが、梨子崎長者は、住民の恩人である旅の僧の行方を探しましたが判りませんでしたので稲荷社の中にこれをまつって感謝しました。現在の梨子崎稲荷の本尊は直立の仏で、右手に鍵を持っているといわれています。