これも郡殿の池にまつわるむかしのお話しです。
昔、いまのように灌漑用水もなく、化学肥料もなかった時代、沼や池は農民にとって何より大切なものでした。そして一種の神格化がなされ、それにまつわる話が多くなるのは不思議ではないのです。
安政年間(1854〜1859年)頃、吉谷の村々の若者達は、朝から仕事を休み、続々と鎮守様に集まって来ました。きょうは夏の土用から五日目、いわゆる土用五番の日にあたるのです。
男性たちは、お宮の草とりと手入れ、女性たちはアネサかぶりで、手持の野菜類を持ち寄って、御馳走づくりに汗を流しています。この日は村中総休みで、その年の豊作を祈願する風祭の日でした。準備も終わり、人々は車座になって酒宴をはじめました。真夏の炎熱は焼けつくようでしたが、この森の中は涼しかったので、飲めや唄えやで夜になってもまだ酒宴は続いていました。
その年は天候もよく、豊作が予想されていましたが、あまり大豊作だと米の値段が大暴落になるという心配も一方ではありました。
賑やかな酒宴の最中、一人の山伏が顔を出し、村人たちにさそわれ酒宴の中に入りました。この山伏の名は源四郎といいます。
「いま郡殿の池に行って来た。このままだと米は大豊作で値がさがるから米の値段があがるように、竜神様に頼んで来たぜ。大変御馳走になったの。」
と、帰りかけました。村人がなおも聞くと、
「嵐がくれば米のできは悪くなる。米が少なければ値段は上がる。米屋は手持米で儲かる。そこで町の米屋に頼まれて、いま郡殿の池の主をたまがそうと、猫三匹を殺して
投げ込んで来たのだ。」
と言い捨てて、源四郎は酒盛りの場から姿を消しました。
居並んでいたお百姓さんたちは、何か寒気がするような話でしたが、別に大嵐の気配もないので、さらに酒宴は続き、最後に残っていた者も酔いつぶれてしまいました。
その時でした。あれほどの星空は見る見るうちに曇り、と同時に大雷雨が襲って来ました。すべてを流さんばかりの大豪雨は、たちまち大洪水となり、大豊作を思わせた田畑は水の底となりました。
夜があけました。水は引きました。村人は心配しながら、自分の田の水まわりに出かけ、対策本部となった鎮守様に集まって来ました。その時、一人の若者が顔色を変えてとびこんで来ました。
「大変だッ、昨夜の源四郎が倒れている。」
みんなで駆けつけてみましたら、
「アッ、源四郎に首がない。」
と思わず異口同音に叫びました。無惨にも山伏姿の源四郎の体に首がありません。何者かの強い力で抜かれてありました。
村人は蒼くなりました。それから誰がいうとなく、源四郎の首は郡殿の池の主に抜かれたのだと評判されました。それ以来吉谷では、土用五番のお祭りを、その前夜にすることになったということです。