むかしのお話です。
その頃小千谷の大庄屋東徳右エ門の家は、市内上山町赤坂のあがり口にありました。この徳右エ門の先祖は、ここから少し離れた杉林の中にあったのですが、ある夜の夢知らせで「現在の所に移れ、そして井戸をほれば不老長寿の水が出るから、それを飲めば一家は末永く繁栄するであろう」と聞こえたので、さっそく船岡山麓にある赤坂の上がり口に移住したのでした。そのとおりに良質の水が湧き、子孫は大庄屋となり。繁栄しているのでした。
その当代の徳右エ門は、やがて六十になろうとしている最後の人生を、毎日晴耕雨読で楽しんでいましたが、ここ三、四日妙な夢を見続け、今朝も汗ビッショリで眼がさめました。夢の中では先祖の徳右エ門が現れて「俺は今長い間土の中に埋められている。早く俺の霊をほり出してくれ、そうすればお前の娘の病気はなおるだろう。」というのでした。
その頃、一人娘はかわいざかりの年頃でしたが、病名不明の難病にかかっていました。父親の徳右エ門は方々に名医に治療させましたが、ただ悪くなるばかりでした。使用人たちは「あれは何かのタタリだ。」とうわさしあいましたが、好人物の当主徳右エ門にはたたられる理由などありません。そんな時の夢見でした。だから彼にはただの夢とは考えられないことでした。
それから、先祖の霊のなんであるかを知るために、毎日土蔵の中で古い東家の古文書を見ました。すると杉林時代に信心の厚い先祖がおり、付近にはまだ見たこともない大きな石地蔵をたて、日夜おがんでおりましたが、ある嵐の夜、大泥棒がこの石地蔵をどこかに持ち去りました。あんな大きな石地蔵を持ち去るほどの力持ちはいませんので、これはきっと妖怪変化のしわざにちがいないと、なげき悲しみましたが、そのためか急に原因不明の病気で死んでしまったということでした。
「そうだ、この行方不明の石地蔵は必ず土の中に埋められている」
と彼は推理しました。それからたちまち家の者全員動員され、石地蔵捜査の作業がはじまりました。しかし、一ヵ月たっても二ヵ月たってもほり返す鍬には地蔵らしきものはあたりません。夏が過ぎ、秋が来、やがて冬が来ました。その年は大雪でしたが、作業は続けられました。
ある雪の深い朝、人夫の一人が懸命にほっていた時、カチッと手ごたえがありました。勇気づいてなおもほり進んだところ、地蔵さまの巨体が土の中から出たのでした。
不思議にも徳右エ門の一人娘の病は快方にむかいました。その地蔵尊は冬雪の中からほり出したのだから「冬堀地蔵」。俗称ヒヨボレ地蔵と呼ばれ、今なお付近の人の信仰を集めており、尊像の裏には「東徳右エ門」と刻まれております。そのほり出した地点は杉林といわれていたのでしたが、現在「冬堀町」となっています。