おぢやの伝説

百塚

 三仏生の西方の丘地に、百四十あまりの小塚があります。むかし三島郡朝日の長者と富を競っていた夕日長者が、祈願することがあって築いたといわれていますが、歴史的にはまだ解明されておりません。その中のひとつに、この多数の塚は夕日長者がそこに財宝を埋め、それが判らないように、同じほど樹が茂って、それが約二キロメートルも続いており、不気味な雰囲気をかもしだしていたのですが、戦争中にこの付近が臨時兵営になったため、木は伐られ、道は改修された上、村人によってそのいくつかが掘り出されたこともあって、今は昔の面影はありません。

 むかしのお話です。

 百塚の近くで子守りをしていた母親がいました。あまり子供が泣くので、百塚を数えはじめました。九十九まで数えましたがまだ泣きやまないので、またもや数えました。「百」。すると今まで泣いていた子供が泣きやみました。母親は「おお、よしよし」といってあとをふり返ると、子供の首がありませんでした。驚いた母親があたりを探しますと、さっき「百」と数えた塚の上に子供の首がありました。それ以来、百塚を数えた人はいないといわれています。

 むかしのお話です。

 百塚を数えようと、ローソクを百本持って一本ずつ塚にたててはお参りをした人がいたそうです。最後の塚をお参りし終えた時、ローソクが二、三本残っていたということです。ところが、別の人が百五十本のローソクを持って、同じようにお参りをしたところ、最後の塚に行かないうちに、ローソクがなくなったということです。

 むかしのお話です。

 他国者の船頭が、ヒゲだらけの顔に太い眉を動かしながら、三仏生の船頭相手の茶屋で茶碗酒をあおりながら、百塚の話を聞いて気炎をあげていました。

 「全部数えると目がつぶれるだの、さもなくば死んでしまうなんて、そんな馬鹿な話があるか。よし、今夜おれが塚の数を数えてやらあ。」

 茶屋の亭主がとめるのも聞かず、彼は日の暮れるのを待って百塚に行きました。しかし、村人は翌朝その船頭の無惨な屍体を百塚の入り口で発見しました。屍体の首には、山犬の噛み傷がハッキリ残っていたそうです。

 やはりその頃のお話です。

 三仏生の村に二人の武士が訪れました。宿をとって一枚の地図を中心に百塚の研究をしていました。宿の亭主が二人からきいた話によると、むかし米山の鬼五郎という盗賊がおり、鬼五郎は盗み奪った財宝を深夜になると三仏生に来ては埋め、その跡に塚を築いて石仏を安置し、それを隠すために同じものを百幾つも築いたのだそうです。さらにそれが他人や手下の者に発見されるのを恐れ、自分でその場所に住んで、夜陰に乗じて忍んで来る者を殺していたが、いつの間にかいなくなってしまった、ということでした。

 その二人の武士は兄弟で、どうやら米山鬼五郎の子孫らしく、家に伝わる古文書で三仏生の百塚を探し当てたらしいが、その古文書の最後の

  煩悩の 無限の悩み われ苦し

     救いたまいや くどくあれかし

という和歌のところでハタと壁につきあたりました。盗賊だった先祖がその罪を懺悔したものですが、この三十一文字の中に秘宝の秘密が隠されていると思うと、心がはやるばかりでした。そのうちに弟の方が、

 「判ったぞ。“くどくあれかし”というのは即ち九十九に違いない。九十九番目の塚の下に宝が埋まっているのだ。」

 二人ともおどりあがって喜びましたが、その瞬間この二人の兄弟の心の底に、埋蔵財宝独占の野心が芽生えたのでした。

 翌日二人は表面は仲良く百塚に入りました。しかし、夜がふけてもその二人はついに帰ってきませんでした。その翌朝心配になった宿の亭主が、若い衆を連れて百塚に行きました。するとどうでしょう、二人とも斬りあったのか、抜刀して倒れ、死んでおりました。以来九十九番目の塚がどれだか、いまだに判らないということです。

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